「逃げ上手の若君」の舞台・諏訪 ~諏訪の伝説 逃げ上手は時行だけではなかった!?~

歴史の雑学
アニメ「逃げ上手の若君」OPより引用

かぴです。

諏訪大社を調べるとどうしても日本神話が出てくるのですが、わたくし神話や伝説といった類の話が大好物でして…ついつい読みふけってしまいました。せっかくなので、諏訪に伝わる伝説を紹介します。

「諏訪の七不思議」として紹介したものは今回は軽く触れる程度でほとんど飛ばします。ご了承ください。また、一度アップしても新しいものを見つけたら足していくつもりです。しばらくして見たらしれっと足されていた、ということもあると思いますが、そちらもご勘弁ください。

諏訪の伝説

「逃げ上手の神様」!? 強大な相手から逃げてきた次男坊

 諏訪明神とも言われる諏訪大社に祀られた神・「建御名方神(タケミナカタノカミ)」について。彼は出雲大社で有名な大国主命(オオクニヌシノミコト)の息子にあたります。彼は古事記には登場しますが、日本書紀には登場しない神です。

 彼が出てくるのは、主に日本神話の中でも有名な”国譲り”のエピソードです。

 高天原(神様の国)にいる日の神・天照大神(アマテラスオオミカミ)が、孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)こそ葦原中国(地上の日本)を治めるにふさわしいと考え、当時葦原中国を治めていた出雲の大国主命に遣いを送り、国譲りを勧告することにしました。
 2回目までの遣いたちは大国主命のもとで暮らすことに満足してしまい帰ってこず失敗しましたが、3回目の派遣では、武力行使も辞さない考えで力自慢の建御雷神(タケミカツヂノカミ)と足の速さが自慢の天鳥船神(アマノトリフネノカミ)の2柱を遣わします。建御雷神は浜辺にて持っていた剣の塚を突き立て、上を向いた切っ先の上に座って大国主命に国譲りを迫ります。
 大国主命は、「私の一存では決められない。息子の意見を聞いてから結論を出す。」と話します。早速天鳥船神が走り、船に乗り魚を採っていた兄の八重事代主(ヤエコトシロヌシ)に国譲りについて意見を求めると、「あなたが仰るように、高天原に国をお譲りしましょう。」と国譲りに賛成したあと、船を転覆させて柴垣に変えて姿を隠してしまいました(無言の抵抗?)。
 一方、建御雷神のもとには大きな岩を片手でかついだ男がやってきました。彼が弟の建御名方です。国譲りについての問いかけに対し「国譲りは認めない。」と拒否し、さらに「自分の方が強い、力比べをしろ」と建御雷神につかみかかります。すると建御雷神は腕を氷に変え、さらに鋭い剣に変えました。建御名方は驚いて建御雷神から手を離しますが、建御雷神は建御名方の手を掴むと、いとも簡単に握りつぶしてしまいます。
 建御名方は勝てないことを悟って逃げ出し、建御雷神が追いかけます。出雲から延々と逃げ続け、ついに諏訪湖で建御雷神に追いつかれて殺されそうになりました。建御名方は命乞いをし、国譲りを認めることと、自分は諏訪から一歩も出ないことを誓って助けてもらいました。

 2人の息子が国譲りに同意したと聞いた大国主命は「唯一の条件として、高天原の神の力で、出雲の地に、高天原の神様の宮殿のような、大空にそびえる立派な宮殿を建ててください。そうしたら大人しく国を譲り渡します。」と答えました。こうして、出雲には大きな宮殿が作られ(※現在の出雲大社)、葦原中国は瓊瓊杵尊、そしてその子孫である天皇が統治していくこととなります。

 上の文章の下線が引いてある部分が、建御名方神についての伝説になります。
 ちなみに、この伝説から、10月(神無月)は日本中の神様たちが出雲に集まって人々の縁結びを行うという行事がありますが、建御名立神は諏訪から出ないと約束したためこの行事には参加しないのだそうです。

 建御名方神は島根県出雲市から長野県諏訪市までの長距離を逃げてきています。そのルートは、沼河比売(ヌナカワヒメ)を建御名方神の母とする諏訪の伝説によれば、出雲を出て日本海を渡り糸魚川を遡って諏訪に入ったのだとか。(本居宣長や他地域の説だと、太平洋を渡って天竜川から諏訪入り)。結構な距離だし、海を渡りきり川を遡って逃げるのはすごいですよね。

 もちろん、日本神話は神スケールのため距離の概念がバグッているので(※宮城県から投げられた岩が長野県に着地したり、島根県から蹴り飛ばされた小屋が岐阜県に着地したり。)もっと短距離のつもりで書かれているんでしょうけれども。神は人間より巨大である、なんて記述は日本神話には無いので、神たちが人間と同じサイズ感だったと考えればとんでもない逃げっぷりです。

 諏訪にて捕まってしまってはいますが、健御名方神も「逃げ上手の神様」とみることができるのではないでしょうか。

建御名立神 vs 洩矢神

 諏訪に逃れた際に、既に諏訪にはたくさんの神がいましたが建御名方神はそれらの神を服従させました。特に有名なのは土着神・洩矢神(モリヤ)との戦いです。

 天竜川のほとりにて、洩矢神は鉄の輪、建御名方神は藤の枝を武器として戦いました。戦いの中で藤の枝が鉄の輪に絡みつき、鉄の輪は錆びてしまいました。この結果、洩矢神は驚き、降参することになりました

 建御名方神は洩矢神を打ち破ったことで、諏訪地方の支配権を確立しました。しかし、建御名方神は洩矢神を完全に排除するのではなく、洩矢神を自分の部下として取り込みました。洩矢神はその後も諏訪地方で信仰され続けることとなり、現在は長野県岡谷市に洩矢神社という神社が建てられて信仰されています。

 …しかし、まー、建御名方神ってここまで見ると血の気が多いですね…。

夫婦の(愛の)力で、海をも押し返す

 土着の神々を負かして諏訪の神となった建御名方神は、土着神・八坂刀売神…奥さんと出会います。

 「八坂刀売神」は、古事記や日本書紀には登場しない、長野県諏訪地方固有の女神といわれています。兄は長野県安曇野市の穂高神社の御祭神・穂高見神、親は大綿海神(海の神でイザナギ・イザナミの子)または天八坂彦命といわれますが、詳細は不明です。

 「昔は諏訪の近くまで海水が氾濫していたため、建御名方神と八坂刀売神は治水のために山をうがち、日本海へと水を流し出して、初めて諏訪に平地を得た。」

 という伝説があります。もしかしたらこれが夫婦の初の共同作業だったかもしれません。

 ちなみにのちに夫婦喧嘩で八坂刀売神が下社に行ってしまい(※綿の湯の伝説)別居状態になってしまったのですが、毎年建御名方神が八坂刀売神のもとに通っているという伝説があります。(※御神渡り)少なくとも建御名方神が八坂刀売神のことを好きでいることが分かるエピソードです。

「逃げ上手の豪族」!? 一族皆殺しを免れ逃げてきた次男坊

 厩戸皇子(聖徳太子)と蘇我馬子が、随から渡ってきた仏教を敬い、広めようとしたのは有名な話です。しかし、大きな変化にはいつの時代だって反対勢力が生まれます。

 このとき、仏教普及に断固として反対したのが、大豪族「物部氏」でした。物部氏も天皇のように神話の神にルーツを持つとされ、大和朝廷からは軍事・警察に携わる重大な役を与えられていましたが、先祖は大事な神事に携わっていたので日本古来の宗教である神道をとても大切に考えていた一族でした。

 物部氏の代表的人物が「物部守屋(もののべもりや)」という人物です。彼は仏教推進派の蘇我馬子と犬猿の仲になり、582年の「丁未の乱」にて蘇我氏に敗北し、殺されてしまいます。一族は皆殺しになってしまいました。

…が、諏訪大社から守屋山を挟んで反対側、長野県伊那市高遠には「守屋神社」という神社があり、そこにはこんな伝説があります。

 大和政権の中枢にいた物部守屋だが、582年に蘇我馬子との戦に敗れた。その守屋の次男が諏訪の地に逃れて、諏訪大社神長・守矢氏の養子となり神長職を継いだ。そして森山に物部守屋の霊を祀ったので、守屋山と呼ぶようになった。
「諏訪の神さまが気になるの 古文書でひもとく諏訪信仰のはるかな旅 北沢房子 著」より抜粋)

 なんと、伝説によれば北条時行と同じく、一族皆殺しを逃れて諏訪に逃げてきた生き残りがいたようです。しかも北条時行と同じ次男です。名前は武麿というそう。守屋山といえば、諏訪大社上社のご神体になっている山ですね。

 諏訪大社神長・守矢氏とは、諏訪大社のトップである大祝の、そのすぐ下に位置付けられた「五官祝」という神職の筆頭を勤めてきた家であり、土着神・洩矢神(モリヤ)の末裔といわれています。
 身分が高いとはいえヨソの子である物部氏の遺児を養子にするだけでなく、守矢氏の血族が請け負っていた重職に就かせるなんて、一体何があったのでしょうか。

まとめ

 まだあるはずですが、とりあえず一旦しめます。

 伝説レベルではありますが、「逃げ上手の若様」北条時行と似たような経緯を持つ人が2人もいることにびっくりしました。諏訪は京都からも江戸からも鎌倉からも遠く、古代からの神域であるため、みだりに攻撃できない場所です。他にもこうやって難を逃れてきた人たちはいそうだと思いました。

 諏訪大社が存在していたと明確に分かる古文書は692年のものですのでそれより以前には創建されていたといわれています。そして物部氏の生き残りが諏訪に逃げてきたのはそれより前の582年頃。

 これはあくまで私が考えたことですが…「神道に関わる人物である物部氏の生き残りが、諏訪に逃げて土着の宗教のトップレベルの神職となり、やがて諏訪大社を中心とする大きな宗教勢力になっていった」って、物部氏=建御名方神、土着の宗教=八坂刀売神、洩矢神として考えると、諏訪に逃げた建御名方神が土着の神々を取り込んだり結びついたりしながら諏訪随一の神となった、先述した建御名方神の伝説とちょっと似ていますよね。

 諏訪大社上社のご神体は守屋山だし、守屋山は物部守屋の霊を祀ったとされ、さらに守屋山頂上付近にある石祠は、守屋神社の奥宮です。
 もしかしたら、物部氏は建御名方神のモデルだったのかもしれませんね。

 あと、八坂刀売神の親が綿津見神…海の神だという説があるのも面白いなと思いました。山の中なのに。はるか昔は確かに、諏訪のすぐ北には海が広がっていたようですけれどね。そんなの、神社を作るような時代の人たちは知る由もないと思うのですが…。

 いやはや、不思議です。

コメント

タイトルとURLをコピーしました