かぴです。
先日の記事「逃げ上手の若君」を観てみた。」において、武士が活躍し戦争が当たり前だった時代って、命の価値が現代より軽いと書きました。このことについて思い出したことがあったので、今日はそちらについて紹介します。
現代において、「命の価値」とはどんなものでしょうか?10万円?300万円?2億円??
現代の日本人ならこう言うでしょう。「命は金では買えないほど尊いものである」と。
しかし、武士が活躍し戦争が当たり前だった時代は違いました。
戦争が起これば大量殺人者はむしろ英雄と呼ばれるし、どんな背景があろうと負けた大将はもれなく首を落とされて殺される。戦争や略奪に巻き込まれて一般市民が理不尽に死ぬことがあってもそれは「仕方ない」で済まされてしまうし、貧困世帯が口減らしで子どもを捨てたり、売ったりすることも”よくあること”でした。
さて、少なくとも平安時代~江戸時代までの数百年間続いた、この「命の価値がとても軽い」価値観を変えたのは誰だったのでしょうか?
もちろん、長い年月の中で、人々が不断の努力によって変えていったのもあると思います。しかし、「殺すのはダメなこと」「弱い存在をみんなで守りなさい」と法で定め、強制的にそのような空気に持って行った人物がいます。
それは…「犬公方」と呼ばれた江戸幕府第五代将軍・徳川綱吉です。
名前:徳川綱吉
生年:1646年~1709年
江戸幕府第4代将軍の兄・家綱が逝去し、第5代将軍になる。父である第3代将軍・家光によって儒学の勉強をみっちりさせられていたため、学問大好き人間になる。
「え?でも待って?彼はダメな将軍だったのでしょう?」と思う人もいると思います。昔の教科書で学んだ方々は、彼についてはマイナスイメージがついていると思います。しかし、近年は彼の功績が見直されているのです。
将軍時代の前半は、むしろ「天和の治」と呼ばれて称えられるほどの善政をしています。有能な人材ならば外様大名など今まで中心的な役職を任されることのなかった身分からでも登用したり、「日本の学校教育発祥の地」といわれる湯島聖堂を作って儒学を中心とした学問を学べる機会を作り新井白石などの優秀な学者を多数輩出したりしています。
マイナスイメージの原因になったのは後半の方です。悪名高い法令・「生類憐みの令」が敷かれたのも後半です。しかし、この制度は、確かにとんでもない法律ではありますが大事な改革が成りました。
犬ばかり大事にされたという面のみ有名になってしまっていますが、実はそれはほんの一面のみにすぎません。
ルールとは、「それをやる人が実際にいて困る人が多かったから作られた」ものが多いです。今回は、また「「御成敗式目」、裏返すと当時の日常が分かる説」のときのように、この「生類憐みの令」を裏返して、当時の世間の様子を考え、どうなっていったか見てみたいと思います。
「生類憐みの令」、裏返してみよう。
「生類憐みの令」の内容
さっそく徳川綱吉肝いりの法令「生類憐みの令」の内容を見てみましょう。この法令は一度に出されたものではなく、年をまたいで次々と追加されていったので、「第〇条」のような書き方はしません。しかしただの羅列は分かりづらくなってしまうので、分かりやすいようにナンバリングしながら10個厳選して紹介します。(参考:ジャパンナレッジ)
1、将軍が通る道筋に犬・猫が出ていても構わない。
2、幕府の台所で鳥類・貝類・エビを使ってはならない。
3、子どもや病人、牛馬を捨ててはならない。
4、牛馬に重い荷物を背負わせてはならない。
5、犬の喧嘩は水をかけて引き分けにさせなさい。
6、飼い主のいない犬には、のちに面倒になると思わず餌を与えて保護しなさい。
7、蛇、犬、猫、鼠などに芸を教えて見世物にしてはならない。
8、鳥類家畜類はもとより、ハエ、蚊、ノミにいたるまで殺してはならない。
9、釣りをしてはならない。
10、鷹狩りや鷹狩りに関する儀式を停止する。
「生類憐みの令」、裏返してみた。
1、将軍が通る道筋に犬・猫が出ていても構わない。
→将軍が来るようなら飼っている犬猫は外に出さないようにしていた。通る道に犬・猫がいれば追い払って排除していた。
2、幕府の台所で鳥類・貝類・エビを使ってはならない。
→幕府の台所で鳥類・貝類・エビを使って調理していた。
3、子どもや病人、牛馬を捨ててはならない。
→子どもや病人、牛馬を捨てていた。
4、牛馬に重い荷物を背負わせてはならない。
→牛馬に重い荷物を背負わせていた。(病気になったら捨てる、という価値観なので、構わず牛馬がケガをするほど度を越えた量を乗せていた可能性もある)
5、犬の喧嘩は水をかけて引き分けにさせなさい。
→犬の喧嘩は放置していた。(結果、ひどいケガをしたり死んでしまったりする犬も多かったでしょう。)
6、飼い主のいない犬には、のちに面倒になると思わず餌を与えて保護しなさい。
→お腹を空かせて放浪する犬は放置されることがよくあった。
7、蛇、犬、猫、鼠などに芸を教えて見世物にしてはならない。
→蛇、犬、猫、鼠に芸を仕込んで見世物にすることがよくあった。(犬以外の動物は簡単にしつけられるものではないので、餌で操作したり酷い仕打ちをしたりして芸を覚えさせていた可能性がある)
8、鳥類家畜類はもとより、ハエ、蚊、ノミにいたるまで殺してはならない。
→ハエ、蚊、ノミを殺していた。
9、釣りをしてはならない。
→釣りをしていた。
10、鷹狩りや鷹狩りに関する儀式を停止する。
→鷹狩り(鷹をしつけて、野生の動物を狩る武士のたしなみであったスポーツ)をよくしていた。
「生類憐みの令」をやった結果
裏返して見て、いかがでしょうか?2や8、9などは「いや、それ(蚊を殺す、釣りをするなど)当たり前でしょ。禁止されたら辛いでしょ」と思いますが、3や4、7などは現代の感覚だと「人の心ある?」と思えてしまいますね。
「生類憐みの令」で、さらに厳しい改訂版が出るなど特に強く推し進められたのは、5、6に見られるような「犬の保護」と3の「子どもや病人、牛馬の保護」だったそうです。
犬の保護
そもそもなぜ「犬の保護」をしたかというと、跡継ぎに恵まれない綱吉が相談した際、隆光僧侶から「前世で動物を殺したから跡継ぎに恵まれない。特に戌年に生まれたから特に犬を大切にしなさい。」と助言を受けたからという理由です。現代の感覚だと「胡散臭い」と思ってしまう内容ですが、綱吉は信じました。一方、当時の犬たちの状況はというと、飼い主のいない野犬が尋常ではない程いました。生類憐みの令が元で江戸じゅうの野犬が集められ保護されたのですが、その数10万匹。犬たちを収容する施設は東京ドーム20個分にまでなったそうです。
さて、”10万匹以上の犬たちが野生で生きている東京”って、皆さん想像できるでしょうか?
―餌をくれたり躾してくれる飼い主がいないので、犬たちは群れを作り餌を得るため狩りをするか、人間の食べ物をもらうかして生きていかねばなりません。縄張りや餌をめぐってそこらじゅうで犬同士の争いが起こります。序列を大切にする生き物ですから、争いに勝った犬はヒエラルキーの頂点に君臨しますが負け続けた犬は野垂れ死んでいきます。道端や草むらで犬の死体が転がっているなんて珍しくもなかったでしょう。人が引く荷車などにうっかり轢き殺される犬もたくさんいました。
さらに、本来肉食の野犬からすれば人間も”動物の一種”です。実際、獰猛な野犬に襲われて死ぬ人や食い殺される子どもは後を絶たなかったようです。
想像すると、かなり殺伐とした状況であったことがうかがえます。
犬たちが保護されると、その管理に莫大な人件費や餌代などのお金は掛かったものの、今まで頻発していた犬がらみの悲しい事件はなくなり、江戸の町は安全な街へと変わっていったそうです。
ただし、10万匹の犬の世話、収容する施設の維持などで6000人もの人手が必要になり、餌代や維持費、人件費はものすごくかかって幕府の財政を圧迫したそうです…。
子どもや病人、牛馬の保護
「子どもや病人、牛馬の保護」については「捨ててはいけない」「もし見つけたら養いなさい(つまり今までは見つけても放置されていたということ)」「どうしても世話ができないなら養ってくれる人を探すから役所に申し出なさい」などと書いてあります。監視役までつけていて、実際病気の馬を荒野などに捨てて刑罰を受けた人も何人もいるようです。このようなことから、法令ができるまで子どもや病人、病気になった動物を捨てるのが本当に横行していた様子がうかがえます。
法令ができたことで、それまで捨て子や病人、病気の動物が道端に転がっていても放置してきた人々が、保護せざるをえなくなりました。人や動物が病気になったからといって捨てることができず、死ぬまで面倒を見なければならなくなりました。
綱吉が死んだあと、法令は即廃止。しかし…
綱吉は死ぬ前に、「生類憐みの令は残して引き継いでいってくれ」と懇願したそうです。しかし…「蚊を殺すな」「釣りをするな」などとエスカレートし、守るのに無理があるこの法令は引き継がれるわけもなく…。綱吉の死後即廃止され、犬の収容所なども解体されたそうです。
その際のお触れにはこうありました。
「今後、生き物に関する処罰は行わない。けれども、憐れむべきものは憐れみなさい。」
そして、捨て子を禁止する法令などは残されました。これは、今までの「命の価値はとても軽い」という価値観が改革された瞬間と言えるでしょう。
命への価値観の改革は、綱吉の悲願だった。
徳川綱吉が成し遂げた「命についての価値観の改革」は、偶然ではありません。
儒学とは、例えば「人に優しくしなさい」「目上の人(親など)を敬いなさい」「人には礼儀を尽くしなさい」など、中国の孔子という人物が作り上げたいわば”道徳”です。これをしっかり学んだ綱吉は、軍事力や武力で押さえつける世の中ではなく、徳を重んじ学問で世の中を治める政治「文治政治(ぶんちせいじ)」を目指していました。生類憐みの令を発令する際にも、「人々が他者を思いやる心をはぐくむようしたいと思い、この政策を打ち出している」と説明したそうです。エスカレ-トしすぎて悪政として名高いものになってしまいましたが、この軸自体は素晴らしいものですよね。
死後、この軸の考え方は理解され後世に伝わることとなったわけですが、これは綱吉が幕府の家臣たちに儒学を学ぶことを推奨した功績でもあるでしょう。
まとめ
歴代江戸幕府将軍の中でもあまり評判の良くない綱吉ですが、いかがでしたでしょうか?
生類憐みの令のエスカレートだけでなく貨幣の改鋳→経済の混乱といったこともやらかしているので、やはり庇えない部分も多いのですが、平安から江戸前期までの将軍たちは当たり前に考えていた武力政治を否定して「文治政治」を目指し、今までならば悲しみのうちに死ぬしかなかった子どもや病人、動物などの弱者を救い、低すぎた命の価値を無理矢理押し上げることに成功したこの”改革”は、日本人の歴史において非常に大きい功績だったのではないでしょうか。
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