かぴです。
『「聖徳太子」は実在しない』はかなり有名な話になってきました。中学校の教科書でも、「厩戸皇子(聖徳太子)」と表記されています。
詳しくはこちらが分かりやすいです→「帝国書院 「聖徳太子」は、なぜ「聖徳太子(厩戸王)」と表記されるようになったのですか。」
帝国書院の記述に付け足すと、研究が進んで、どうやら「聖徳太子」とは、飛鳥時代後半に中央集権国家化を進めたかった天皇や貴族(天武天皇・藤原不比等あたり)が、天皇家の権威を上げるために「天皇家は神の末裔であり、過去にはこんなすごい人を排出しているのだ」と、実在した厩戸皇子に他の人たちの手柄をくっつけまくって作り上げた架空のスーパーヒーローであるようだ、という説が浮上してきているそうです。
あと、有名な肖像画「聖徳太子二王子像」。
聖徳太子の肖像画として有名な絵ですが、あれも厩戸皇子の死後100年以上経っているので、本当の姿かたちではないんですよね。
この絵の服装は、実は奈良時代初期(絵が描かれた頃)の服装。厩戸皇子が生きた飛鳥時代前半は、朝鮮の服が取り入れられていた時期だそうで、11世紀前半に書かれた私撰歴史書である「扶桑略記」には、「飛鳥に法興寺を建て、仏寺刹を奉安する際にも、大臣蘇我馬子をはじめとした100余人すべてが百済服(百済=当時朝鮮半島に存在した国の1つ)を着た」と書かれています。そのため、厩戸皇子も百済服を着ていた可能性が高いのです。
そして、古墳や刺しゅうの絵を元に復元された、少なくとも推古天皇の頃に、厩戸皇子が着用していたと推測される服装は、以下の服。
肖像画と比べて、装飾少な目だけれど何枚も重ね着して、オシャレな感じですね。
当時は「冠位十二階」もありましたから、この画像は黄色ですが地位によって12色の色分けがされていたはずです。こうしてみるとカラフルですね。
とりあえず、肖像画の服装は、実際のものではないことがお判りいただけたと思います。
厩戸皇子、実際はどんな服装をしていたのかは分かりましたが、どんな顔をしていたのでしょうね。
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