かぴです。
「平清盛(たいらのきよもり)」、皆さんご存じですよね。
氏名:平清盛
年:1118年~1181年(享年64歳)
平氏の棟梁。父親は平忠盛だが、白河法皇であるという説もある。
では、「源義朝(みなもとのよしとも)」はどうでしょうか?知らなかったとしても、字面でピンときている方もいるのでは?・・・はい、そうです、源頼朝の父です。
氏名:源義朝
年:1123年~1160年(享年38歳)
源氏の棟梁。子どもたちには源頼朝や義経などがいて、源氏復興の際に活躍した。
保元の乱では共闘し、平治の乱では対立した両者ですが、この2人は強力な武士団のリーダーであったという共通点はあるものの、リーダーとしてのベクトルは全く別の方向を向いていたようです。
平清盛と源義朝を比べてみた。
当時の様子を知る上で有名なものといえば「平家物語」ですが、これは鎌倉時代の世に平氏の栄華と衰退を前面に出して、琵琶法師を通じて庶民も面白く聞けるように作られたものですから、源氏を正義としてかっこよく、平氏を悪としていやらしく描いている傾向があります。なので、作者が実際に見聞したことも盛り込まれているという説話集「十訓抄」や史料「愚管抄」から比べてみます。
ざっくり表にしてみた。
それぞれのリーダーとしての能力を、ざっくりと◎〇△で表してみました。
平清盛 | 源義朝 | |
武芸の腕 | △ | ◎ |
周囲を巻き込む求心力 | ◎ | ◎ |
部下のメンタルケア | ◎ | △ |
革新的な発想・実行 | ◎ | 〇 |
武芸の腕
源義朝は、少年期から京都の父のもとを離れて関東に行き、力を付けました。当時の関東は、京都の大和朝廷の支配が及ぶ最東端であり、蝦夷(東北)との衝突が絶えず、そこにいる武士は「坂東武者」といわれる勇猛な武士たちでした。彼らの仲間になるには、やはり武芸を磨かなければならなかったでしょう。義朝は後ろ盾を得ながらも勇猛な武士たちの中で揉まれたわけです。最期は部下に裏切られて死んでしまうのですが、その際に「我に木太刀(木刀のこと)なりともあれば」と叫んだという伝説があるので、腕に覚えがあったこともうかがえます。
一方、平清盛はというと、源義朝が遠くまで矢を飛ばせる強弓の腕を持っていたのと真逆で、矢はヘロヘロとあまり飛ばなかったそうです。しかし、これは平家物語に書かれた話ですが、「神輿のど真ん中に矢を命中させた」という話もありますので、距離は飛ばせなくとも命中率は高かったのかもしれません。
周囲を巻き込む求心力
源義朝は関東で上総氏という有力な豪族からの後ろ盾を得て「上総御曹司」などと呼ばれながら、関東地方の豪族に庇護されたり、傘下に収めたりしながら力を伸ばしました。”源氏の棟梁の息子”という親の七光りで大成したのかと思ってしまいますが、父は源氏の棟梁とはいえ京都でうまく出世できず、そんな父から跡取りとして扱われていなかったという説もありますので、親の七光りではなく実力で味方を増やしていったことが想像できます。
平清盛は、詳細は後に書きますが部下や家族を大切にしていたと言われています。源氏の棟梁一族ほど武芸で光るものがなかったらしい清盛が棟梁を勤める武士団が、平治の乱で源氏に勝つほど強かったのは、清盛が作った平氏のただならぬ結束力の賜物と言われています。この結束力は清盛の死後も続くほど強力で、源氏が再興し京都を追われた平氏の部下や家族は負け戦と知りながら平氏のためにと命を懸けて一緒に散っていきました。
部下のメンタルケア
源義朝はここがうまくいかなかったかもしれません。保元の乱のあと、源義朝は命令されて、敵方についていた自分の父や弟をその手で斬りました。これには「助命嘆願したが聞き入れてもらえなかった」説と「父と仲はあまり良くなかった」説がありますが、とにかくその後「親の首を斬りやがった」と世間から叩かれることとなったようです。助命嘆願して泣く泣く父を殺して世間から非難される…だと、義朝が不憫でなりませんが、部下からすれば同情はするものの「自分がついていくべきリーダーが世間から非難されている」という事実は居心地の悪いものだったでしょう。
最期は部下に裏切られて亡くなりましたし、部下に固く忠誠を誓わせるようなところまではいかなかったことが窺えます。
一方平清盛はこれが大得意でした。清盛は十訓抄によれば”気遣いの人”です。こんなエピソードがあります。↓
①部下がスベっても笑ってフォローしてくれる。
②部下がひどい失敗をしても大声で怒鳴ったりしない。
③部下が恥をかかないよう公の場ではなく人目につかない場所にこっそり呼び出して説教する。
④身分の低い部下でも、その家族の目の前では一人前として丁重に扱い、本人も家族も喜ばせた。
⑤冬の寒い時期は、警護の若い武士たちを自分の衣の裾(部屋の中なので外よりマシ)に寝かせた。
⑥⑤の翌朝、こっそり起きて抜け出していって若い武士たちは存分に寝かせた。
病と暴力、死が今より身近な世の中だったはずなので、荒れた言動や人を粗末に扱うことがよくあって当然だったと思うのですが、そんなものは微塵もない、上司の鏡みたいな人だったことが窺えます。失敗をしても上手くフォローしてくれるし、部下が嬉しいこともたくさんしてくれるのに全く威張らないなんて、部下は「一生ついていきます!」という気持ちになるし仕事へのモチベーション上がりますよね。
ちなみに、上のように優しいので、敵の大将の子でも年若い子どもであるならば殺さず生かしました。これについては後の世から見れば清盛の失敗だったと言えるでしょう。その生かした子どもたちは成長したあと協力して平氏を追い詰め滅亡させたので、もし殺していたら、歴史が大きく変わっていたと思います。
革新的な発想・実行力
源義朝は棟梁の嫡男として生まれたにも関わらず少年期に関東に行かされ、嫡子としての立場もないものとされてしまいました。そういうところは恵まれませんでしたが、その後着実に勇猛な坂東武者たちを仲間に引き入れ、その後京都で活躍して父より上の地位に就いてしまいました。嫡子だけど嫡子じゃなくなったどん底のところから這い上がって出世していく様子は、当時としても珍しかったのではないでしょうか。ある意味革新的なことを成し遂げたと言えます。しかし、私が調べた中では、それ以外に「革新的な発想」をしたエピソードは見当たりませんでした。
平清盛はというと、革新的な発想をしていたエピソードはいくつかあります。
①「祇園乱闘事件」で朝廷に神輿(神具なので絶対の存在)を乗り入れて強訴しようとした僧兵たち。神輿は「攻撃したら死ぬ」と信じられていた。僧兵たちと平氏の間にひと悶着あり、清盛は「こんな混乱を起こす神は神なはずない」と神輿に矢を放ち、見事命中、見事迷信を打ち破り、見事生還。
②対立した相手は殺すことも多かった世の中で、瀬戸内海の海賊退治の際、降参し自分に従う意思を見せた海賊は許して商船を警護する仕事まで与えた。
③平氏の経済力を上げるために、遣唐使廃止後から中国の商人たちと日本の商人たちの私的な貿易に留まっていた中国(宋)との貿易を平氏が主体的に行うことにし、そのために神戸港をしっかり整備した。(日本初の人工的な港が完成)
当時の迷信や慣例に流されず、現実に起きていることをありのままに分析して自分なりの答えを持ち恐れず実行していったことが分かります。
まとめ
源義朝も平清盛も、武士という荒くれものたちを束ねる優秀なリーダーだったことは間違いありませんが、どうまとめていったのかは全然違う様子が見えてきます。
源義朝は、武士が好む「強い男」の面を磨き、出世して引っ張っていくかっこいいリーダー。
平清盛は、身分が低い部下でも尊重し気遣いを忘れず、マネジメント力に長けた優しいリーダー。
どちらも一長一短ありますが、優秀なリーダーたちであったことは間違いないでしょう。
さて、皆さんだったら、どちらの配下に就きたいですか?
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