元寇だよ☆鎌倉武士集合!その1~元寇ざっくり解説編~

かぴです。

「元寇」とは、中国の「元」が、日本に攻めた(=寇)事件です。「神風」と呼ばれる風が吹いて元軍が退散したとして、あまりにも有名な歴史的事件ですよね。

皆さんは、この「元寇」ってどんな印象があるでしょうか。「新兵器(てつはう)を使う強い元軍と、兵器を持たない弱い日本の武士」「日本が非常に苦戦した」「神風が吹かなければ負けていた」などのイメージを持つ方も多いのではないでしょうか。

しかし、案外そうでもなかったようで…今の視点から見てもクレイジーすぎる鎌倉武士の戦いっぷり、あまり知られていないと思いますのでご紹介したいと思います。

ちなみに、学芸員でもない個人が趣味で調べて書いているものですので、そこはご承知の上でお読みいただければと思います。あと、「諸説あり」です。

いくつかあるので小出しに行きたいと思います。その方が読みやすいでしょうしね。

牽制の「文永の役」、激おこの「弘安の役」

まずは、「元寇」の概要について、ざっくりおさらいをしておきます。

文永の役弘安の役
原因元の国書を5回既読無視したから元の使者全員を処刑したから
1274年1281年
元軍の人数約2万人超約14万人
元軍の船の数900隻4,400隻
参照:「刀剣ワールド」

 人数と船の数を見るだけで、元の本気度が分かりますね。

「文永の役」の原因

文永の役の原因欄に「国書を5回既読無視」と書きました。

国書とは、元が日本に国交を求めるものでした。わかりやすく内容をかなりくだけた現代風にすると…

 (中略)日本って、中国の王朝とは昔から仲良くしてたんでしょ?どうしてウチとは今まで交流しようとしてこなかったの?ウチも王朝だから今後は仲良くしてこうよ~☆ すべての国はみんな家族だと思ってるからさ!君も、ウチのことはパパだと思ってくれていいんだよ?
 …分かってくれるよね?殴り合いのケンカなんて、ほんとはしたくないんだよ???
 じゃ、よく考えてね。返事まってる☆☆

 なぜ元が日本と国交を結びたがったのかというと、「南宋」という中国王朝を堕とすのがなかなかうまくいかなかったために協力を仰ごうとしたためです(協力してくれれば、地理的に挟み撃ちできるポジションですからね)。

 では、どうして日本(鎌倉幕府)は5回も既読無視したのかというと…日本は既に南宋と繋がっていたから。南宋から日本に渡った僧侶などが「元って王朝マジで危ないから!日本乗っ取られるから!誘いに乗ったらいけません!」と訴えていたんです。朝廷と幕府で何度も会議を重ねた結果、まさかの「既読無視」という結論に至りました。

 まず文面に脅し入ってるのがダメな気もしますが、5回もラブコールを既読無視されたら、そりゃ怒りますよね。元も怒って、戦争(殴り合いのケンカ)を吹っ掛けることになりました。

牽制の「文永の役」

 文永の役で使役された兵隊は、実は元の軍隊の割合は少なく、支配した高麗などからの寄せ集めの兵士がメインだったそうです。船も高麗で作らせました。そんな指揮統制にも不安が残るような軍隊でしたが、これを派遣しました。

 その理由は、目的が「日本に勝つこと」ではなくて、「日本を揺さぶること」だったからだといわれています。日本が使っていない兵器を持ち込んで驚かせたり、元軍は壱岐島や対馬などでは非戦闘民である島民を皆殺しにしたり(※皆殺しの様子は日蓮の書に書いてありますが、日蓮も実際に行ったわけではなく伝聞で聞いた話を書いたといわれています。なのでどの程度本当なのかは分かりません。)、あっさり撤退したことからも伺えます。

 「ほら!手紙に書いた通りだぞ!ウチは強いから、仲良くしなきゃもっとヒドいことするぞ!」とジャブを打っている状態ですね。

ちなみに、撤退の理由は、「嵐が来たから」ではない説が濃厚です。これについてはまた次の記事に書きます。

「弘安の役」の原因

 元としては、文永の役で日本に焼きを入れたつもりでしたので、「ウチ強かったでしょ?さぁ、次はもっと軍隊送っちゃうよ??仲良くするなら今のうちだよ☆」と使者を合計5人派遣します。

 しかし、日本は上陸した5人を鎌倉に送って処刑。元にはこのことは黙っていました。何も知らず来た2回目の使者たちに至っては、鎌倉に送ることもせず博多にて処刑します。ちなみにこの「他国の使者に害を加える」って現代においてはありえませんが、当時でも国際的なルールに反するものだったようです。

 使者を日本に送っていった水夫から使者たちが処刑されたことを聞いた元の軍人たちは激怒。「日本をすぐにでも打ち滅ぼしに行こう!」という声が高まり、日本への2度目の出征が決まりました。

 ちなみに、なぜ日本がこんな苛烈な方法に出たのかというと、「元、大っ嫌い」だったからです。文永の役で苦しめられた恨みがあるのはもちろん、文永の役の後に、日本と交流があった南宋がついに元により滅びてしまったため、元は日本に「大っ嫌いな王朝」と認定されてしまったのです。

激おこの「弘安の役」

 そういうわけで、殺る気満々の元軍vs日本軍の戦いが始まりました。

 今回の元軍の目的は、「日本をボコボコにして勝つこと」です。もう「揺さぶろう」なんて考えていません。高麗と、元・南宋からも軍を出し、二手に分かれて攻撃を加えました。

 しかし、今回は日本も迎撃すべく準備をしていました。これが功を奏して今度は元が苦戦。最後は…ということになります。(この辺もまた今度記事にします)

まとめ

 今回は、「元寇」の2つの戦争、「文永の役」と「弘安の役」について、ざっくりと解説しました。あえてチャラく書いてますが、そこはご愛敬でお願いします。本当は撤退したときの様子も書きたかったのですが、ボリュームがあるので別の記事に分けます。

 当時の鎌倉幕府、外交ルールを無視して中国の使者を皆殺しにするヤバい面がありましたが、鎌倉武士にはもっとヤバい面がいくつもあります。

 その2では、2つの戦争の終わりの様子と、その際の鎌倉武士のエピソードをご紹介したいと思います。

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